白夜書房「JAZZ MAGAZINE」収録)



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(講談社+α文庫収録)

スーパーJAZZエッセイ PART1.ジャズ喫茶通信
通り過ぎた風景
ジャズ喫茶店主  矢野正博 

 俺の住む阿佐谷は、中央線新宿駅から、立川までの武蔵野台地を一直線にぶち抜く、一本の線上に位置し、比較的、東京の中でも時代の波に犯されず、時流に乗らず漂う時代遅れな街で、昔から数え上げたらきりがないほどの人物を排出している事でも知られている。そして、俺がこの町に住む数年前の、1960年代半ば、まだ世の中はジーンズを不良の物とか、ジャズは不良の音楽などとふざけた事をのたまわっていた時代で、風俗、ファッション、カルチャーなんてものも、有り難そうで、かなり不良だったようだ。で、かくゆう、俺も不良の一員であることは間違いなく、当時の街をフーラフラフラ、毎日毎日、風のように飛び回り不良文化を満喫していた。まだ、尻の青い10代後半の小僧っ子だったが、いっぱしの顔で新宿を縄張りに、歌舞伎町のポニーでは(当時は2階にあった)白木秀雄をかいま見てテイク・ファイブを丸暗記。東口には渚があり、馬券売場が似合いそうなあんちゃんに”モンクのピアノをよう聴かなあかんでぇ〜”と脅かされ、ついでに裏社会のお勉強、ずいぶんと役にたったけ。靖国通りの年金前には知る人ぞ知るキーヨがある。この店、やたらと黒人が多く、そのファンキーなのにはビビリまくり、アメリカ人に生まれたかったと悔しがったり、畏れ入ったりで、2階ではハイミナールの大洗礼。ラリラリランで深夜族。朝焼けの中をぶらりブラブラ、新宿御苑に潜り込み、芝生の上でゴロリ朝寝。腹が減っては戦ができぬ。つるかめ食堂へまっしぐら”いつものやつね”で腹ごしらえ。内外ニュースのストリップ、東映映画の看板を横目に、コタニの餌箱かき回し、伊勢丹、三越をすぎ、パイプのノーブル冷やかして、路地奥の紀伊国屋で今日一日、ジャズ屋での時間潰しの一冊を買い込んで、やはりコースの、帝都無線で餌箱荒らし。新宿駅前にある(今のアルタ)食品のデパート、二幸裏にある、アカシア前のパチンコ店いこいでひと稼ぎして、景品買いにピース10ケ捌いて300円。これで今日に軍資金は大丈夫、アカシヤのロールキャベツをちらりと一瞥して、細い階段を一気に3階迄駆け上がると、そこが、俺のホームグラウンド。ディグである。きっと、俺に、不良の素養があることを見抜いたのであろう先輩に、無理やり連れられて、初めてジャズを聴かされたのが、このディグだった。硬いちいさな椅子、ちいさなS卓子、無茶苦茶な音楽。異様な人種。すえたようなタバコの煙で充満した店内。黙りこくった大人達。恐かった。初めて知った世界だった。ズガガガガガーン。俺は、汚染された。犯された。ポール・アンカにデル・シャノン、ロッカビリーよさようなら、アシベにドラム(当時俺がジャズ喫茶だと思っていた店)キサスもグッドバイ。ミンガス、マイルス今日は、てなもんで、ジャズってのはこんなにも、こりゃなんだの世界だったのだ(多分、皆とっかかりはこんなもんだという気がするが?)グィググガガンブルンガブスドコンチバスバスなんじゃこれはと、俺は先輩の耳元にささやいた”この音楽には曲名がありますか?”先輩は大学ノートにおおもむろにこう書いた。<ピテカントロプス>そんな、嘘だこの世の中にそんな曲がある訳がないショックだった。おまけに<原爆許すまじ>と、来てはもうやけ糞の数時間。しかし、それからは毎日のようにこの店に来た。俄ジャズファンも暫くするともういっちょ前。ジャズギャラリ、ヨット、ヴィレッジゲートにジャズヴィレ、木馬、まだまだたくさんあった東京中のジャズ喫茶を渡り歩き始めた。行く店、店が修行の場で、泣かされたり、煽てられたりで、俺もずいぶんと変わっていった。世の中もだんだん変わっていった。
そして数年後、俺は阿佐谷にジャズの店を開いた。恐れを知らぬ若僧が、立った50枚のレコードと、トリオのMT85というレシーバー、ターンテーブルひっつきおまけつき3WAYひっさげての登場である。危ない、危ない。実に危ない。また店が特に危ない。阿佐谷駅を北口へ、左に歩いて2,3分、右にオデオン座、左に高架になったばかりの鉄道ビルに挟まれた日陰道の角っこにポツンと巾。1・8mに、1m、長さ8mのうすっぺらな建物、地上3階、地下1階、やっと建っているビルの地下、穴ぼこ、モグラの巣が俺の店、今はなき吐夢。通りに面したドアを開けると、半畳ほどの踊り場だ。右下にズボっと穴があいていて、そこが入り口。梯子状の階段をそっくり返りながら、そろそろ降りる。奥に向かって、鰻の寝床よろしく30cm幅のカウンターが、ツーと流れている。ひろいところで1・6m、狭いところが90cm、天井まで2mの密室。家主が、倉庫にしていたが、湿気などの酷さに嫌気がさして、ほったらかしにしてあったのを、俺が店にしたのだから、その環境の悪さはおして知るべしである。カウンターに座ると、壁に向かって30cmの睨み合い、後ろの壁に寄り掛かると、前後の空間はない。奥へ行く客は否応なく、皆、起立というわけである。おまけに空調設備がなく、夏は特に酷い。どうやって涼をとるかというと一番奥の棚に1台の古風な扇風機が置いてある。その前に、1貫目の氷を立てると冷や冷や風が客の頭越しをとおり過ぎてゆくといった塩梅。この風にのってタバコの煙、溜息、コルトレーン、モンク熱風が階段上部に吹き上がっていく様は、ジャズそのものだった。まぁ、こんな店だからまともな客などくる訳がない。フーテン、ヒッピー、ライパッパ、放浪詩人にバンドマン、貧乏学生、画学生、役者野郎に文学野郎、不良少女に家出娘、女狂いに、ジャズ狂い、はてはチンピラ、893までが、出たり、入ったりあまりに酷い客に「てめ〜なんか二度とくるな」と云えば、「フンまたきてやる」てな客ばっかしで、いやはや凄いのなんので、この阿佐谷のジャズ屋は、燃えていた。スリリングだった。気合いが入っていた。そして、確実に、風景があり1つの時代を、皆が共有していたという実感があった。10人も入ったら満杯の店、その1貫目の冷や冷や風も、ちょっと離れりゃただの湿風、煙モクモク、音はドガチャカ、リズムどきどきワクワク、汗はダラダラ、それでもコーヒーはホット。敵ながらアッパレなのである。しかしかわいそうな奴もいる。どこで聞きつけてきたのか、間違えたのか階段を下りてきて帰るに帰れぬ蟻地獄、覚悟の形相で座ったが最後、曲の途中で帰る奴は、極悪人断罪の不文律でシケーであるのジャズ喫茶マナー読本の時代。レコードの繋ぎまで何が何でも拝聴していかなければならないのである。これは、辛い、とても辛い。まさに地獄の責め苦蜘蛛の糸、しかしである。この責め苦に打ち勝って、めでたく?常連となった奴のなかには、前衛、コンポラ、わっかりません的音楽を知らず知らずのうちに鼻歌になって出てくるほどの達人が現れたのもむべなるかなである。そんなある日の日記から・・・

某月某日 吐夢 外は嵐。まだ誰も来ない。トレーンのOMを試聴すること2度目の中頃に、階段から緩やかに滝のような水が落ちてくる、ナッナッナントナントこりゃヤバイではないかと、呆然と見ていると、その水の上を白く細い足が一段また一段と用心深く下りてくるのである。OMと滝のダブルショックにトリプルショックの白い足。のほほほ〜嵐の一夜に相応しいシチュエーションではりませんか。降り立った足の美しいこと、そのお化粧の分厚いこと、喉を隠すネッカチーフの不自然さ、ゲ〜ッ、オカマだ〜。ヤベッ〜・・・かくして燃えるジャズ屋の甘酸っぱくも、なが〜い一日が始まったのである。因みにOMを聴くことはなくなった。

某月某日 吐夢 また来やがった。くる度に「音がうるせえんだよボケ!」と言う。俺は知らんもんねでそっぽを向く。すると「オイ、オメッ、モーニングをきかせろ」とこの人がいう。へんなヤーサマが常連になっちまったものだ。「グにもつかねぇ事云うんじゃねぇよ」と腹の中で悪態を吐く、まだまだ若い、俺。
こんな乱暴で気取り方さえぎこちなかったあの頃、不良達のジャズがあった時代が懐かしい。その後、ベトナム戦争、学園紛争などの影響からか、大量な学生が、ジャズ屋に潜り込むは、なだれ込むはの乱入で一時期、陰鬱な活気で店は繁盛したが、すでに後の祭り、今にしてみればスーパーノンポリだったかもしれない野郎どもの、落書きに闘争、主義、殺せ、革命のなんだのが増えてきてからジャズは妙に位が高くなっちまった。感動が無くなった。感動の嵐、興奮のるつぼ、良き不良どもの音楽だったジャズがいつの間にか学問の世界的、お勉強の時間になり果ててしまい、不覚にも不良店主も理論武装。この時期からか、ナーンカ変に自分が変わってしまった。そして、世の中も変わってしまった。ヨゴレチマッタカナシミニ・・・いいやセンレンサレタカナシミニ・・・今の俺の胸のうち。ソシテナクナッチマッタカナシミニ・・・。

 *白い足の人はゴールデン街の<ジョージ>のジョージ・ママのこと。ここでは悪し様に書いてしまったが、当時、一目見たら百人が百人女性と見まがうほどの美人だった。わざわざ新宿から通ってきてくれ、ずいぶんと可愛がってもらったものだ。現在もゴールデン街で現役でやっておられ、度々、各メディアで紹介される知らぬ人なき有名人。
未だに昔のままのの面影を残しているのには感動した。一度伺いたいと思いつつ、数十年もの疎遠になってしまった。